tooru001's diary

写真家 山本 透の写真と文章による日々の記録

写真の力というと、記録や情報の伝達が分かりやすい役割であるのですが、そういう実用とは違った写真の力というものがあります。
それは、写っているものや画質といった機械的な条件の良さとも関係なく、それでも確かに存在しているのです。

他の芸術分野と比べると分かりやすいかもしれません、絵画も写真同様に絵画の力というものが存在しているし、陶芸もまた実用だけではない陶芸そのものの持つ力というものが存在しております。

私も最初はいわゆるコンテストなどの写真が、そういう写真であると思っておりました。絵画、陶芸、書、彫刻その他においても、〇〇展入賞作品などが、それに相当すると考えると、実に分かりやすいですし、そういう目標を狙って受賞することを目指している方もそう考えているのだと思います。

しかしながら、実は、賞というものは送る方の都合で決められているもので、受験の傾向と対策のような、選考者の趣向を調べて、それに沿った作品を作ることが、果たして普遍的な作品の力を追及することになるのでしょうか。

私はそうは思いません。

勿論そうした在り方を否定する気はありませんが、それだけしか考えなくなってしまうと、誰のために何のために取り組んでいるのか分からなくなりかねません。
そうして諦めていく人がいるのも事実ですし、実に勿体ないと思うのであります。

写真に話を戻しますが、その疑問を模索したのが拙著「表彰の地平」であり、その後の私の個展なのであります。

選ぶという行為を時間軸を横に、選んでいく過程を縦に週ごとに思考を形として写真で座標を作った「表彰の座標」。人間の見ている世界だけが世界の正しい見方であるという事への疑問として沢山のレンズが付いているトイカメラを用いた「複眼世界」、一日一枚という枠を外し、当時出たばかりのツーカーの携帯電話の低画素のカメラを用いて昆虫採集のように現実を採集した「採集という行為」などと、写真の力を、あらゆる角度から考察してきました。

銀塩フィルムからデジカメへと変わる中で、次々と実験してきました。
ネットという、恐ろしく残酷に自他を均一化してしまう状況の中でも、日々写真を上げ続けているのも、いまだに答えに行きついていないからなのです。

しかしながら、やってきて分かったことは、画素や大きさなどとは無関係に写真の力は存在するという確信です。

それゆえ、私は手を抜いておりませんし、発表の場に合った写真を提示しているのです。
そのことを分かる方が数名でもいらっしゃる事が、何よりの原動力となっているのです。個展も考えないわけではありませんが、今の写真をめぐる状況で、展示することの意味を見いだせていないのと、一つ段階を過ぎていることが今の私の正直な位置なのです。