tooru001's diary

写真家 山本 透の写真と文章による日々の記録

車を巡る近況について

この数年、車運が無い。ダイハツでずっと乗り継いで、Beex、エッセ、ムーヴまで満足していたのですが、ムーヴのエアコンが壊れて、修理が数十万と言われ、中古車の程度のよい三菱ekワゴンにしたのですが、やたらに事故が続き、保険屋さんに車両保険を解除される始末。

少し後に、今度は追突されて、修理に出してあまりにげんが悪いので、気になっていた新車のタフトに乗り換えました。納車が遅く事故の相手から代車のレンタカーを借りることになっていたのですが。壊れ方が走行に支障が無いので、そのまま納車まで乗ってレンタカー代の39万円を、後で支払って貰うことになっていたのです。
しかし、いざ納車して、その話をすると、そんな約束はしていないと無下にされました。タフトの整備も案内貰える筈でしたが、半年たっても6カ月点検の案内も無く不信感が募っていました。

そしたら、今度は停車中にドアを風であおられた隣の車が手が離れてしまい、私の車にガツン。100対0なのと、買った店がもう信用できないので、ディーラーに修理をお願いし、メンテナンスパックに入ることに決めました。

代車を手配してもらい、先日出かけた先で、無理やり割り込まれ左にハンドル切って衝突を免れたのですが、左前輪のカバーが外れたのと、ドラレコに状況は録画してあるので、すぐにダイハツ行って、レンタカー屋さんに行くと、動画を確認したのですが、警察も動かないでしょうから、自損事故扱いで、修理代を私が払うことになってしまいました。
現在、レンタカーのレンタカーという何とも納得のいかない事態に陥っています。



mixiの時代 2006/07/22

「日記を書いてから5分以上レスが付かないとそわそわします。病気かもしれません」――mixiユーザーの中村初生さんは自らを「mixi依存症」と認め、2004年のある日記にこう書いた。当時の中村さんは、ほぼ毎日日記を書き、友人からのコメントにも欠かさず返事していた。

 mixi日記は、ユーザーによっては、一度書き始めると止められなくなってしまう。日記へのコメント機能やアクセス履歴を表示する「あしあと」機能が、ユーザーに「快感」を引き起こさせるためと、山崎さんは説明する。

 自分の日記にあしあとやコメントが付くと、周囲から認められたという「認知欲求」、自分を受け入れて欲しいという「親和欲求」が満たされ、それが快感になるという。好意を持っていたり、尊敬している相手からあしあとやコメントが付くと、さらに高い快感が得られるため、快感を求めて日記を更新し続けるという“中毒”症状につながる。

 mixi疲れから脱却するためにはどうすればいいのだろうか。山崎さんは、(1)mixiは土日だけしか使わない、といった自主規制ルールを決める、(2)マイミクの数を整理する、(3)会ったことがないマイミクと会う機会を作り、自分と合う人か見極める――といった解決策を提案。最終的には、ユーザーの精神的な自立が必要と説く。

 とはいえmixiは、職場や近所などリアルなコミュニティーの付き合いが希薄となった現代で、その枠を超えた“社交”を可能にし、日々のストレスをいやしてくれるツール。その意味では「国民栄誉賞もの」と山崎さんは評価する。

 mixiをコミュニケーションツールとして気持ちよく使うためには、依存からの脱却は不可欠だ。米国で9000万ユーザーを集めるSNSMySpace」では、SNS依存についての議論が始まっているという。日本でも、真剣に考えるべき時が来ているのかもしれない。

ITmediaニュース) - 7月21日20時26分更新 

以上、Yahoo!ニュースより引用(抜粋)

だそうです。

何でもかんでも、「依存症」というのが流行ってますねえ。
皆さんも流行に乗り遅れないように依存しましょう。(カンカン!!死語)

「タバコは心の日曜日」って大々的にメディアで流してたのは、どこの誰だっけ?
身体にいい!って、カカオの含有率競争でやけに苦い謎のチョコ出しといて、
チョコホーリックなんて言ってるのは、どこの誰だっけ?

極楽山本活動停止」

だそうですので、私もこの辺にしておきます。
が、こうして上書き消費されていく、上っ面さの事象の方が、

「情報上書き消費依存症」

2006/07/25 の日記

ふと、「銀河鉄道999」という漫画の中に、建物全部がガラス張りになっている、
星の話があったのをふと思い出しました。
話の内容は完全に忘れてしまったのですが、最近個展で東京に行く機会が多いので、
同じような違和感を思い出したのでしょう。

7/8日の日記に、「つくばTX」秋葉原駅のことを書きましたが、
昨日など、ギャラリーで人も来なくてぼえーとしてると、

自分が、一体地平線上の、どの地点にいるのか分からなくなってきます。

茨城県の田舎に住んでいるから特にそう感じるのでしょうが。
全国的いや世界的に見ても、東京都内のような都市空間の方が、
異常なのは自明です。

頭上や足の下に何重にも階層があり、気の遠くなるほどの人が、
車や電車という金属箱で絶え間なく物理的に移動したり、
コンクリの箱のビルの更に分業化された部署では、
PCという箱によるネットで膨大なデータが行き来し、
更にはその至る所で、ケータイという異形の小箱によって、
電磁波問題も忘却上書きされ、メールやデータ化された会話が、
蜘蛛の巣のように巡っている。

これほどまでに閉塞した異種混合した箱が集合化した時空間では、
人間の認識能力は既に飽和状態となり、音楽によって耳を塞ぎ、
ケータイメールという「手間の掛かる閉塞した繋がりに」自閉し、
引き篭もらねば、オーバーフローするというのが現状のように思えます。

写真の力というと、記録や情報の伝達が分かりやすい役割であるのですが、そういう実用とは違った写真の力というものがあります。
それは、写っているものや画質といった機械的な条件の良さとも関係なく、それでも確かに存在しているのです。

他の芸術分野と比べると分かりやすいかもしれません、絵画も写真同様に絵画の力というものが存在しているし、陶芸もまた実用だけではない陶芸そのものの持つ力というものが存在しております。

私も最初はいわゆるコンテストなどの写真が、そういう写真であると思っておりました。絵画、陶芸、書、彫刻その他においても、〇〇展入賞作品などが、それに相当すると考えると、実に分かりやすいですし、そういう目標を狙って受賞することを目指している方もそう考えているのだと思います。

しかしながら、実は、賞というものは送る方の都合で決められているもので、受験の傾向と対策のような、選考者の趣向を調べて、それに沿った作品を作ることが、果たして普遍的な作品の力を追及することになるのでしょうか。

私はそうは思いません。

勿論そうした在り方を否定する気はありませんが、それだけしか考えなくなってしまうと、誰のために何のために取り組んでいるのか分からなくなりかねません。
そうして諦めていく人がいるのも事実ですし、実に勿体ないと思うのであります。

写真に話を戻しますが、その疑問を模索したのが拙著「表彰の地平」であり、その後の私の個展なのであります。

選ぶという行為を時間軸を横に、選んでいく過程を縦に週ごとに思考を形として写真で座標を作った「表彰の座標」。人間の見ている世界だけが世界の正しい見方であるという事への疑問として沢山のレンズが付いているトイカメラを用いた「複眼世界」、一日一枚という枠を外し、当時出たばかりのツーカーの携帯電話の低画素のカメラを用いて昆虫採集のように現実を採集した「採集という行為」などと、写真の力を、あらゆる角度から考察してきました。

銀塩フィルムからデジカメへと変わる中で、次々と実験してきました。
ネットという、恐ろしく残酷に自他を均一化してしまう状況の中でも、日々写真を上げ続けているのも、いまだに答えに行きついていないからなのです。

しかしながら、やってきて分かったことは、画素や大きさなどとは無関係に写真の力は存在するという確信です。

それゆえ、私は手を抜いておりませんし、発表の場に合った写真を提示しているのです。
そのことを分かる方が数名でもいらっしゃる事が、何よりの原動力となっているのです。個展も考えないわけではありませんが、今の写真をめぐる状況で、展示することの意味を見いだせていないのと、一つ段階を過ぎていることが今の私の正直な位置なのです。

目標と目的(近代化の分業)

ネット関係の業者とのやり取りがひと段落していいるところです。

ここまであったの経緯などを踏まえて、少し振り返ってみたいと思います。
どうやってみつけたのか。営業が私を見つけ、気恥ずかしくなるような褒め言葉やら、盛んに勿体ないやらともっと多くの人に見てもらうべきだと、HP作成を勧めてきます。わざわざ都内から土浦に何度か足を運んで下さる方、自宅まで車で来て下さる方までおりました。
例えば、車を買うとしたとしてもここまでやる人は居ませんよね。

Zoom会議でも、〇ネットタカダ以上に、こちらを持ち上げ自社の商品のプレゼンをしてくれます。営業だから当たり前なのでしょうが、私だって担当者以上に色々な経験を重ねて生きてきましたので、そううまい話などないことは重々承知しておりますし、そう簡単にひっかるほど単純ではありません。

亡くなった母が行っておりました。「口三寸で要らない物を売りつける」そうなんです。私には、「合った方がいいかも」といういわゆる心の隙があったのでした。そのわずかな隙をつかれて相手のペースに乗せられて見た結果が、今の状態です。

さて、別に被害を受けたという話をしているのではありません。出来上がりも満足のいくものです。ただHP管理が分かりにくく更新しにくいといいう点を除いてですが。

厄介なのは、営業から制作へ完成納品となるのですが、どこも作っただけではダメで検索上位に出なければ集客出来ないということで、対策でまた別の担当が出てくるのです。営業の目的は、HPの契約を取る事でしかなく、あの一緒に頑張りましょうとか熱のこもった方はどっかへ行って、私の目標である優れたHPによる営業とは似て非なることなのです。

写真家としての私の知名度は、ググって頂ければお分かりだと思います。
つまりSEO対策その他のネット対策を色々試しているのですが、それでも私の目標には全く達することができません。

おまけに、膨大な金をつぎ込んでいるので引くに引けないという、有様でして、そこにまた別の業者が入ってくるという。無限ループ状態です。

リアルでの仕事があるので、まだましですが、ネットからの集客はビックリするほどありません。何ともすごい実態でして、誰にどう言って良いやらも分からないのが本当のところです。

拙著『表象の地平』に予見していたように、

「利害のもとに消費され摩耗してきたのは写真だけでなく、言語もまた同様であり権威につながらぬ名も無き者の言葉は、往々にして黙殺されるばかりか、写真においては排斥される。」2000.09.09~09.11

23年前に予見していた通りの状況になっているのでした。

仮現の言説へ

ネットが世界を覆い、情報の海に否応なく飲まれ実際の事象よりも過剰ともいえる死現実をむやみやたらに消費上書して己の立ち位置さえ見失ってしまっている。
これは私だけではなく、ほとんどの人が仮現の現実に左右されつつ流され続けている。

私が予見したのはこの「仮現の言説」と銘打った時、既に20年以上前のことである。

現在、HP3つLP(ランディングページ)1つ、莫大な金額を投入することになってしまった。もちろん自分で決めたことではあるが、現状において知られないということは、無いことと同じであり、知って頂かないことには商売にもならない。

1年以上様子を見てきたが、次から次へと新たな手法を勧められ、営業の手並みなどに驚きながら、本能的に「仮現の言説」に乗ってみている状況である。

不本意な状況が更なる仮現の手段を呼び込み、予見していた以上に混迷と化している。

これが今の私の置かれている状況であり、20年遅れている現実への皮肉なのかもしれない。

山本 透

仮現の言説へ

ネットが世界を覆い、情報の海に否応なく飲まれ実際の事象よりも過剰ともいえる死現実をむやみやたらに消費上書して己の立ち位置さえ見失ってしまっている。
これは私だけではなく、ほとんどの人が仮現の現実に左右されつつ流され続けている。

私が予見したのはこの「仮現の言説」と銘打った時、既に20年以上前のことである。

現在、HP3つLP(ランディングページ)1つ、莫大な金額を投入することになってしまった。もちろん自分で決めたことではあるが、現状において知られないということは、無いことと同じであり、知って頂かないことには商売にもならない。

1年以上様子を見てきたが、次から次へと新たな手法を勧められ、営業の手並みなどに驚きながら、本能的に「仮現の言説」に乗ってみている状況である。

不本意な状況が更なる仮現の手段を呼び込み、予見していた以上に混迷と化している。

これが今の私の置かれている状況であり、20年遅れている現実への皮肉なのかもしれない。

山本 透