tooru001's diary

写真家 山本 透の写真と文章による日々の記録

シカクの話

以前から述べてきましたことですが、考えを少し整理しておこうと思います。

 

視覚にかかわる表現は四角が大半です。9割以上といってもいいかもしれません。
TV、映画、絵画、本、スマホ、パソコン、きりがないので、この辺にしておきますが、四角に囲まれて生活しています。
その四角は、できるだけ見てもらえるように、視覚の効果を上げるために刺激的な構成がなされているのが今の状態です。
ここでそれらの四角について考えてみますと、自分の現実は、四角の外側であって、いわば死角にこそ、その人のリアルな現実が存在しています。例えば、電車の中で、スマホという、それぞれの小さな四角に没頭してしている人たちは、その小さい四角の他は、だだっ広い死角となっているので、実は自分を取り巻く現実の広さを忘れさせられているのです。
しばらく前は、同じ四角の、本や雑誌が主流でしたし、ぎゅうぎゅうの混雑した中で手品のように新聞を読んでいる方などが、今は寝ている人を除くと、ほぼ全員が四角に視覚を奪われ、自分の置かれた現実に興味を持たなくなってしまっているのが現状です。

死角の中にこそが、その人の現実でして、かつて天才アラーキが、私の現実を私の現実すなわち私現実と呼び、私小説になぞらえて、私写真と語っていました。人の現実より、自分の現実の方が面白い。そう言った彼は太宰の道化のように、自分の人生を過剰に演出していっておりました。死角を私現実とすることは、プライベート公開などという生ぬるい生き方ではなく、写真のためにあえて、スキャンダラスな生き方のように見せることを自らに課した壮絶な写真家であると思うのです。

しかし、それはゴッホにも北斎にも太宰にも言えることで、四角にその人生かけた魂削る壮絶な在り方であり、またそうしたからといってかならずしも名作が生まれる保証はなく、死後しばらくして研究者が、これまた四角の中で論じ合うことになっているのです。

太宰の波乱の人生の中で、ひと時安定していた時があり、井伏鱒二がバックアップしていた時期に書いた富嶽百景で、目の前にそびえる富士山を陳腐な表現の代表として、どう表現するかと、あれこれ思い悩むのですが、その中でも「いい富士」と認めたものを注意して読むと、雲で見えなかった日に売店の方が、額をもって一生懸命説明した時と、ふと窓からみえた富士、お見合いの席で見た額装された富士の絵、観光客に頼まれて、富士をバックに写真を撮ってくれと頼まれた時、という、いずれも四角の中の富士であり、太宰の単一表現に至るまでに、四角効果を盛り込んでいるのでした。

私も日録写真家と名乗っているのは、1,999年から2,000年にかけて、一日一枚一文で、言葉と写真という二つのルートで、存在と現実にたいする反応の行きつく先を試行錯誤そのままに、一冊の本にまとめたことから今に至っています。

四角の中に時を切り取られた死現実の中に、私現実を映し出せる日が来るまで、私は撮り続けているのです。

日録写真家 山本 透

日録写真家 山本 透 「自撮りについて」


開業してから、色々な方々とお話しする機会も増えて、いわゆる買いたい写真というものを提供できるように技術だけでなく、心構えにおいても、お客様が何を期待されているのかも少しの会話からも、引き出すためにも言葉は重要です。

今やスマホでの自撮りが当たり前のように普及しています。

私も試して気になったことがあります。

一番見慣れた自分の顔って、どんな時でしょうか、改めて考えると、鏡の中の自分であることは異論はないと思います。
しかし、鏡の中のあなたは、本当にあなたなのでしょうか?
これまた当然なのですが、鏡像だという事を忘れていませんでしょうか。
目の大きさ紙の分け方その他もろもろ、完全に左右対称の顔の人以外は、自分の逆像を自分だと思い込んでいるのです。
ところが、写真は字のごとく、そのまま写ります。すると、自分の顔なのに、左右逆でない自分の顔に違和感を感じてしまいます。集合写真の場合、よくあるのが、自分だけ変で、周りの人はちゃんと写っている。なんだかナルシストみたいですが、写真が苦手な人は、自分の逆像を本当の自分だと思っているから、不自然さを感じるのです。
更に言うと、自撮りは鏡像です。裏返しの自分を安心してみることが出来るように、メーカーがそこまで考えているとしたら、恐ろしいことです。

本当のあなたの魅力を撮らせて下さい。
年齢相当の美しさは、確かにあります。それでも、若いうちにと思われる方も多いと思います。

今が、あなたが一番若い時なのです。

日録写真家 山本 透

友達の一人が、ライブに行って他の方同様に写真を撮ったり動画を撮ったのですが、演者に、終わった後に、許可取ったのか?だまって投稿するなんて盗撮と同じだ、との内容の事を言われたらしい。

色々な条件があるので簡単に答えを出せませんが、撮禁でしたら最初から全体に言うべきだし、つるし上げのように個人一人だけにクレームを言う事には首肯できません。
また、今回の事だけでなく、盗撮という単語が独り歩きしていて、写真を生業にしているものとして、看過できない事態に多々遭遇しております。(以下引用抜粋)

東京都の公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例においては,「盗撮」を「正当な理由なく、人を著しく羞恥させ、又は人に不安を覚えさせるような行為であって、人の通常衣服で隠されている下着又は身体を、写真機その他の機器を用いて撮影し、又は撮影する目的で写真機その他の機器を差し向け、若しくは設置すること」と定義しています。

弁護士法人
渋谷青山刑事法律事務所
 HPより引用抜粋

明らかに通常の撮影において、会話で「盗撮」などと軽々しく用いるものでは無い事がわかります。

ここでも矛盾するのは、防犯カメラの設置も、誤用されている「盗撮」になることは自明です。
スマホのカメラの性能を馬鹿みたいに上げて、それを売りにしているキャリアにもその責任の一端を担うべきだと私は思います。

ひと昔前は、ラボが現像の段階で、法に触れるような映像を、ストップできていたのですが、それすら失われて、撮ったらすぐに見られ、視覚の欲望を肥大化させる道具として悪用されているのは、今の日本の現状を見れば明らかです。